あっちそっちこっちってどっち?

いったいどうなってるんダヴィンチ。

あっちそっちこっちってどっち?いったいどうなってるんダヴィンチ。

RADWIMPS「おしゃかしゃま」

あっちへ進めばいいんだよ。

先生という存在が、 絶対的だと思えていたあの頃。
先生に叱られなければ“正解”。叱られてしまったら“不正解”。
そんな単純な世界で生きていた。
“正解”の数を増やしていく日々。“満点”とは、“不正解”がない状態。

ねぇ先生、

一度も叱られなければ私は満点だよね?

ちょっとこっちへ来なさい。

先生に呼ばれた時の、 あの言い知れぬドキドキ感。
先生に褒められたら“正解”。褒められなかったら“不正解”。
そんな単純な世界で生きていた。
“正解”の数を増やしていく日々。“満点”を取るためには、 褒められ続けなければならない。

ねぇ先生、

もっと褒めてくれないと私は不安だよ。

そっちへ行ってはいけないよ。

先生という存在が、 絶対的だと思えていたあの頃。
先生に従うことこそ“正義”。先生に従わない奴は“悪者”。
そんな単純な世界で生きていた。
とても偏った“正義”を信じて過ごす日々。

“悪者”とは、 人の望み通りに動かない人。 人の望み通りに動けない人。

ねぇ先生、

皆の期待に応えられなかったら、 私は悪者になってしまうよね?

どっちへ進むかは自分で決めなさい。

いつのまにか、自分で決断するってことが大事って聞かされるようになってた。

ねぇ先生、

どっちって何?あっち?それともこっち?
そっちとこっちは何が違うの?私はどっちに進んでいるの?

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あっち側の人間。

昔から私は、あっち側の人間に憧れている。
あっち側の人間は、 友達もいっぱいで人気者で、 なんだかとっても華やか。

あっち側に行ってみたい。

できることなら、 私もあっち側の人間になってみたい。でもどうすればあっち側の人間になれるんだろう。どうすれば…

そこでとりあえず、 こっち側とあっち側の違いを考えてみた。だけど、考えても考えても、なにがなんだかよくわからない。

もう考えても仕方がないから、 ある時私は覚悟を決めて、あっち側に行ってみたんだよね。

あっち側に行ってみたけど。

あっち側に行くのは簡単だった。何のしがらみもなかった。
そしてようやく辿り着いたあっち側。 このあっち側の世界には、どれだけ素晴らしいことが溢れているんだろうか。

なーんてことを考えてたんだけど、ふと気が付いたら、いつのまにか私はこっち側にいたんだよ。

あれ?

そうか、そういうことだったのか。なんてことでしょう。結局私は、あっち側に行った気になっていただけだったのです。
どうして私は、あっち側の人間になれないのでしょう。

こっち側の人間。

それはね、あなたはこっち側の人間だから。たとえあなたがあっち側に行ったとしても、 あなたにとってのそれはこっち側に変わる。
だからあなたは、絶対に永久にあっち側の人間にはなれない。あなたにできるのは、あっち側の人間に憧れることだけ。

だってさ、 “あっち”って“こっち”より遠いでしょ?
自分から遠い存在だから、 あっち側の人間なんだよ。

諦めなさい。そして、受け入れなさい。

あなたはこっち。 こっちがあなた。

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こっちにおいでよ。

それは、魔法の言葉。ちがう。それは、法のない世界へと私を誘う魔の言葉。

人と違う部分。

人には誰でも、 他の人とは違う部分があるんだってさ。なるほど。 じゃあそう信じてみることにするよ。

人と違う部分。 それを秀でてるって捉えるときがある。 だけど劣ってるって捉えるときもある。

太陽の光を浴びたほうがいいのか、紫外線は避けたほうがいいのかとか。
輝いてるっていうのは良い状態を表すのか、頭が輝いているっていうのはどうなのかとか。

ひなたはあったかいのか、ひかげは涼しいのかとか。
日傘を差す人間は、いったい何から身を守っているのかとか。

頭は良いほうが良いのか、回転は速いほうが良いのか、ゆっくり回転したほうが良いこともあるのかとか。
頭良いとかゆうのは、 ただ考えすぎるだけではないのかとか。

頭の回転が速い人よりも、何も考えなくても生きていける人のほうが人としてよく出来てるかもしれないとか。

スポーツだって、 ルールを決めたのは人間。
どうなったら優勝で こうなったら劣敗って決めたのも人間。
所詮、多数派が作り出した常識とかゆう偏見のカタマリみたいな価値観に多分に影響を受けているだけ…。

カタマリでカタマリを作り出す。
人の評価って、 自分か他人がするんだって誰かに聞きました。
私は自分で自分を良く評価できる自信はあるけど、 他人に自分を良く評価される自信はない。
ただ、自分で自分を悪く評価できる自信もある。

見方によっては、他人も自分でも私のことをいくらでもダメ人間にできるわけだし。
優れた部分を作り出そうとしたら限界があるかもしれない。
だけど、考え方を変えると優れた部分に見えてくるんだとしたら限界はなくなるのかもしれない。

大きい才能とか小さい才能とか言うけれど、 それを決めてしまうのは人間。
そして才能の大きさを勝手に比べてしまうのは私。
なんとかして大きさの測定基準を定めないと 私のくだらなさを大きく捉えられる基準にしてくれると良いな。

だから結局基準ってなんなのかな。主観が交じらない基準があれば、文句は出ないのかな。
文句を言うときに結局主観が交じるからどうしようもないのかな。

基準の基準を定めるほうが…。基準基準。 基準基準基準。基準基準基準… 永久基準。

なんてゆうか、 私は、 こう考えてるってわけじゃなくて、 こう考えてみたってだけ。堂々と巡ります。

そしてこれも思考に対する言い訳。言い訳の言い訳をしても良い理由。
あなたが私から離れるためのいいわけ。 私があなたから離れていいわけ。
そんなものは必要ない。と思っていいわけ。いいわけがいいわけ。 いいわけがいいわけない。 いいわけがいいわけにはならない。

だからさ、こっちにおいでよ。

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