絶対的な相対感。相対的な絶対感。絶対的な絶対感。

今は昔、とある私の物語。

私は絶対的なことが好き。

この世に絶対なんてことは絶対にありませーん。

あなたはいったい誰ですか。

絶対的な絶対感

確かに絶対的じゃないこともありますけど。
何事もルールを作れば、それが絶対でしょ。

スポーツでも、ルールが絶対。
審判がルール、審判が絶対だったり。

数学の世界には、絶対的なものがたくさんありますね。
数学は、人が脳の中でルールを定めて作り上げている学問らしいから。

それに比べて、人と人との関わりほど非絶対的なものはないですね。
誰か明確なルールを定めてください。
私はそれに絶対従うから。絶対従えなかったら、絶対退場しますから。

でもそうしたら、きっとなんだかつまらない世の中が出来上がるのかな?

私もそんなつまらない人間のひとりになっていくのかな?

と、ここまでが昔のお話。

すでに頭ん中ひねくれてたのが丸分かりですね。

「数学は脳の機能そのものなのだ。」

ある方のお言葉です。

なんという納得感。

脳内完結の美しさ。

完璧主義者のパラダイス。

もし間違いが生じたとしても、それは自分の思考過程に誤りがあったというだけで。

その誤り部分さえ修正すれば、すべて解決できる喜び。

なんという絶対感。

だから私は数学が好きなんでしょう。数学に安心するのでしょう。数学が信頼出来るのでしょう。数学は裏切らないのでしょう。

ところが、人間関係ってのは自分の思考通りに事が運ぶわけがないのです。

いくら自分の思考が脳内完結してて完璧でも、上手くいかないことはいくらでもあるのです。

人と人との関わりってのは、脳内を大きく超えた次元に存在するのかもしれません。

当時の私は、そんなことにすら気付けていなかったのでしょうか。

今の私も、そんなことすら理解できていないのかもしれませんけど。

今後の私も、そんなことすら消化出来ずに生きていくのかもしれません。

完璧主義者が自虐ネタを言えるようになったら、完成度が増します。完璧度は下がるかもしれませんが。

そんな余計なことばかり考えている私は、きっと単純に単純思考に憧れているのでしょう。

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脳化社会

「現代社会は脳の中身を現実化した脳化社会である」

出典:『唯脳論/養老孟司』

らしいです。

「脳は予測と統御を目的とする器官である。それが社会を作り上げる。したがって、社会は予測と統御とが可能な方向へと、必然的に移行する。それが“進歩”である。」

出典:『日本人の身体観の歴史/養老孟司』

らしいです。

人間は、あーすればこーなるという予定の中で生きたがる。
そしてそんな思い通りの社会を現実に作ろうとしている。

でもまだ自然ってのはなかなか思い通りにゆかなくて。
地震だとか自然災害って、今んとこなかなか予知はできない。

でも人は地震を予知できるものにしたがっている。
自然を支配下において予定の中に組み込もうとしている。

人が自然までも支配してしまったら果たしてどうなってしまうのだろうか。
すべての事にどーすればあーなるってゆう予測が出来て。

その予測ってのは、予定と言っていいほどほぼ間違いなく当たるもので。
そのこーすればどーなるをまとめた人生の攻略サイトみたいのが出来上がって。

どんな選択肢があったとしても、
あんなふうになりたきゃこれを選べばいい
ってことが攻略サイトには明確に記されていて。

何をする上でも、調べれば答えと感じられることが載っていて。
調べさえすれば、常に正解を選んで生きていると感じることが出来て。

昔英語の授業で、
わからない単語があってもすぐに辞書で調べるということをするな。
前後の文脈からその単語の意味を類推してみるんだ。
とかゆう話をされた気がする。

すぐに辞書で調べるという癖をつけると、辞書に頼りすぎて自分で考えなくなるからだろね。

それといっしょで、生きていく上で何も考える必要がなくなったら、人はそのうち考えるという行為を全くしなくなるのではないか。

人はしっぽを使わなくなったからしっぽがなくなったように、
考えることを止めたらだんだん思考能力が低下していくよね。

そして人が人でなくなる。人知を失い始める。

頑張って進化してるつもりが、退化していく。

人類の退化の歴史の始まり。

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人は生まれながらに演じている

人は生まれながらにして自分という役割を演じているんだそうです。

なるほど。納得感しか得られません。

まずは、
自分という人間はこうあるべきだと教わり、
そのように演じる。

そして、
自分という人間はこうあるべきだと考え、
そのように演じる。

ということでしょうか。

いずれ、
自分という人間がどうあるべきか見失い、
演じられなくなる。

ってとこでしょうか。

やっぱり何もかもが後付けなのでしょうか。自分というのは。

ちがうちがう。きっとそうではない。
自分ってこうゆう人間だから、こうゆう行動を取っているはずです。

でもさ、だけどさ、
自分ってこうゆう人間って決めたのは誰?

天から降りてきたの?それってやっぱり神様?それとも自分?
もしかして私が神様か?なんだって後付け。

鬱病を病気ってことにしたのも。
地球が丸いってことにしたのも。
どんな行為が犯罪か決めるのも。
自分がどんな人間か決めるのも。

最初は何にも考えてなかったくせに。
後から都合良いように解釈してるだけでしょう。
あなたはただ、解釈の上手な人間になろうとしてるだけ。
そう思いたいから、そう思って分かった気になっているだけ。

優れている人

多才な人を発見すると、素敵だなってとっても良い気分になる。
なんかこんな素晴らしい人もいるんだなって。

だけど、

多才な人の存在を認知すると、自分の劣悪さに嫌気が差してくる。
他人より優れているとか勝っているって思うことで自分を保つのが精一杯。

そんな時は、見方をいろいろ変えまくって、自分のほうが優れている解釈を導きだす。

そうしないと自分の存在価値がわからなくなる。
他人に認められること。他人より優れていること。
これらを通してしか自分を認められないってこと。

やっぱり自分がない。根本がない。いや、根本が他人に依存している。
自分ひとりじゃ生きていけない。だから他人に依存していてもしょうがない。

他人あっての自分。自分あっての他人にできないか。
過去があって今がある。今があるから過去があると考えることと一緒。

ほんとに一緒?
他人に認められるために育ったんでしょう。

やっぱり。人格形成は少年期(少女時代)ですもんね。仕方がないのです。そういうものなのです。

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